2月18日に国立さくらホールで国立人文研究所の創立1周年を記念し、翻訳家の金原瑞人氏による講演が行われた。
児童文学・ヤングアダルト文学を中心に、400作にのぼる英米文学を翻訳してきた金原氏は、「翻訳家は裏切り者?」というテーマで講演した。翻訳とは、新しい考えや異質な文化を自分たちの文化に引き寄せて理解するための手段であり、翻訳家の解釈によっては原典とは異なる作品になってしまうこともある。それは原典に対する「裏切り」ともいえる。
例えば、一人称の「I」。英語では、どのような人物でも「I」を一人称として使うため、語り手の性別や属性が最後にようやく明らかになるような作品が存在する。だが、「私」「僕」「ママ」など多様な一人称が存在し、使う人の性別や年齢がある程度推測できる日本語では、語り手の正体を隠した作品の翻訳は難しい。「I」は和訳にとって永遠の課題だが、それが面白さでもある、と金原氏は話す。
翻訳は、時代によって同じ単語でも訳され方や説明のされ方が異なっているなど、各時代の文化や社会を反映する。「私たちが数十年前の翻訳を古めかしく思うように、未来人はきっと今の翻訳を笑うだろう」。一方で、翻訳が社会へ影響を与えることもある。明治時代以降、欧米文化が流入し、それを学ぶために辞書を作成する必要に迫られた。英文と和文を同時に読みやすく記述しようと、日本語を従来の縦書きではなく左から右に書く方法が考案された。既に一文字ずつ縦書きにすることで右から左に文字が並ぶ書き方は存在していたが、明治から昭和にかけてその二つは混在し、次第に左から右へ横書きする方式が定着していった。
国内に異文化を取り込み、自分なりに解釈しようとする積極的な姿勢こそが、文化の未来を拓く。それが、翻訳家が「裏切り者」として必要とされる所以である、と金原氏はまとめた。
原典と翻訳書の違いについては、「そもそも原作者が自分の思考を完璧に表現できていないし、翻訳家は原作者の考えを完全に理解して翻訳しているわけではない。さらに、読者が翻訳された作品を読んだとしても、それぞれ読み取り方は異なる」と、読者が翻訳書を読む際に、一つ余分なズレが生じることを指摘した。だが、それもまた翻訳の面白さだ。
翻訳家にとって脅威になりうると言われている人工知能(AI)の自動翻訳技術については、むしろその進歩を歓迎している。「単純な日本語訳だけでなく、三島由紀夫風に訳す、などのように読者の好みにあわせた訳まで提供できるようになるのでは」、と期待を語った。
最後に、学生に向けて英語との関わり方を尋ねた。近年のグローバル化に伴い、学生は英語4技能すべてを要求される流れにある。ただ、金原氏はそういった風潮には否定的だ。「もちろん仕事柄、英語4技能がすべて必要な人もいるが、読み書きさえできれば、世界の人と繋がれる時代になっている」。学生には、英語で情報収集・発信する能力を高めてほしい、と話した。
■金原瑞人(かねはら・みずと)
54年生まれ。翻訳家、法政大学社会学部教授。代表的な訳書は『豚の死なない日』、『青空のむこう』、『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』シリーズなど。エッセイに『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』などがある。