昨年(2019)度末で本学を退任した吉田裕元社会学研究科特任教授に話を聞いた。吉田元特任教授は、本学大学院の修士課程に入って以降、40年近くにわたり本学を一成員として見つめてきた。(1月17日取材)

―研究について。
 近現代日本政治史、軍事史です。具体的には、アジア・太平洋戦争や日本の軍隊、戦前・戦後の天皇制を研究テーマとしてきました。現実に提起される問題に敏感に反応していくタイプだったので、教員になってからは、教科書問題の国際化や近隣諸国との歴史認識をめぐる摩擦、そして昭和の終焉といったさまざまな問題に焦点をあてて研究してきました。

―なぜ研究をはじめ、そしてなぜそのテーマを専攻したのでしょうか。
 高校で受けた世界史の授業が非常に面白く、歴史に関心を持ちました。そこで日本史の教員になろうと東京教育大学(現・筑波大)に入学しました。そこで、勉強をするうちに研究の面白さを感じ、本学の大学院に入りました。
 テーマの選択については、戦争の記憶は僕自身にはないのですが、敗戦後9年しかたっていない1954年に、基地の街だった豊岡(※)で生まれたということがあり、戦争の体験が地域社会や家族の中に息づいていたので、わりあい子供のころから戦争の問題には関心を持っていました。

―ご自身の研究に関して、苦労したことなどはありますか。
 日本では、歴史史料の公開がとても遅れてきました。例えば、防衛庁防衛研究所が所管する旧陸・海軍の史料の閲覧体制が整備されるのは、2001年の情報公開法の施行以降です。そのため、旧陸・海軍をはじめとする戦時の史料を探すのにはとても苦労しました。特に、南京事件など日本軍の戦争犯罪に関する史料については一層苦労した思い出があります。研究を始めた当時は、研究所の史料目録も作成されていないなど閲覧体制も整っていない状態のなかで、夏休みは毎日のように研究所に通い、どんな史料が全体として存在しているかわからないという状態で、狭い机で「やみくも」に史料を読むということをやっていました。
 また、研究に際しては、いわゆる「私家版」として出されているような各部隊の部隊史、兵士や将校の書いた回想記や日記を片っぱしから集めて読んでいくという作業もしていました。研究費や原稿料はほとんど古本屋で使っちゃったかな。大学を離れるにあたり、せっかく集めた私家版・回想記などを散逸させてしまうのはもったいないと思い、ずっと引き取り手を探していたのですが、最近ようやく韓国から引き取ってくれるとの知らせが入り、ほっとしています。

―教員として、学生のかかわりで印象に残ったことなどあれば。
 印象に残ったことで言えば、教歴の前半部分、20世紀に勤務していた時代が特に記憶に残っています。今も印象に残っているのは、1999年の国旗国歌法の施行翌年に起こった学内紛争です。一橋大学では、国家国旗法の制定まで、祝祭日などで日の丸を掲げていませんでした。しかし、その年から文部省(現・文部科学省)からの要請もあって掲揚することになり、そのときに学生から猛烈な反対が起こりました。
 日の丸を最初は校門、その次は法人本部棟の前に掲げようとしておろされちゃって、そしてその次に法人本部棟の屋上のポールに掲揚しようとしたんですが、反対派の学生が屋上を占拠しておろしてしまった。そのときに、彼らに屋上から降りるよう説得したことが今でも印象に残っています。
 今も記憶に残っているエピソードはもう一つあって、それは昭和天皇が危篤になって、いわゆる「自粛」ムードが漂っていたときです。コンパの席上で、韓国人留学生から、「自粛の強要という異常な状態に対して日本の知識人は何もしないのか」と問い詰められたことがありました。焼き鳥屋の広い座敷がシーンと凍るように静まり返ったのをよく覚えています。

吉田元特任教授の研究室。多くの歴史史料を含む蔵書は2部屋に分けて保管されていた。

―吉田先生は長らく本学に在籍してきました。そのうえで感じた変化などはありますか。
 国立大学法人全体に言えることだとは思うのですが、時間的なゆとりが無くなっていることは劇的な変化だと思います。僕らが研究を始めたころは長期休暇をフルに研究に使うことが出来ましたが、今は始業が早くなったり、入試業務が増加したり、大型の外部資金を獲得するのに要する時間が増えて、教員や職員が全体に忙しくなっています。これは特に若い教員にとっては厳しいな、と思いますね。
 学生との関係でいうと、以前は大学が学生に発言する権利を認めていて、いい意味で相互に緊張感があったと思うのですが、それがなくなってきていると思います。かつては寮監制度というものが存在し、若手の教員はそれを通じて寮の学生と接する機会があったのですが、今は普通の教員にとって学生の声を聴ける場所といえばゼミぐらいではないでしょうか。もうちょっと意思疎通する場があってもいいとは思います。
 もちろん、個人的にはとても恵まれた環境にあり、一橋で研究できたことはよかった、と考えています。

―学生とのかかわりでは。
 学生自体の勉強意欲という面では変わっているという風には思わないですが、戦争体験という面でいえば、両親や学校の先生も戦争体験世代ではないわけで、そのギャップを感じることはあります。これまでは「悲惨な戦争を繰り返してはならない」「そのために過去の戦争の歴史を学ぶ」という暗黙の了解があったわけですが、それが無いんですよね。「なぜ学ぶ必要があるんですか」という問いが出てくる。戦争の歴史について知る・学ぶことの意義を説明しなければならない時代に入っているということを、教員の側としても認識して対応していかなければ、と思います。
 一番感じるのは、天皇に関する変化です。今は「天皇陛下」という一まとまりの単語で使われることが多いですが、僕らは「天皇」と呼びます。「陛下」をつけることに、率直に言えば抵抗があるわけです。一方で学生たちはごく自然に「天皇陛下」と言う。「天皇」という存在が自然に受け入れられているな、というのを感じます。かつてあったような日の丸を引きずりおろすとか、君が代を歌わないとか、ということはなくなったな、と。

―大学から離れた後は、どのように活動しようと考えていますか。
 大学の校務から解放されるということで、さしあたりちょっと休みたいかな、という気持ちがあります。特に再就職もせずに、自分の研究に集中したいと思っています。具体的には、『日本軍兵士』で書いた内容をより発展させていくこと、そしてまだ自分が書籍にできていない「東京裁判」を勉強することを考えています。

―最後に、一橋生に対してメッセージをお願いします。
 やはり、「常に疑問を持つ」ということです。既存の研究や教員の語りに対しては、何かしらの疑問、あるいは違和感があるはずです。そうした疑問や違和感は、無知と誤解に基づく場合も多少はあるけれども、何かしら本質的な点を突いていることが多いんですね。そうした感覚を大切にして勉強してもらいたいと感じます。

※……かつて埼玉県南西部に存在した町。合併を経て現在は入間市の一部をなす。


吉田裕(よしだ・ゆたか)
現、東京大空襲・戦災資料センター館長。昨年度まで社会学研究科特任教授。79年本学大学院社会学研究科修士課程修了、83年同博士課程単位取得退学。社会学(修士)。83年に本学社会学部の助手となって以降、専任講師、助教授、教授として長らく本学に勤める。18年名誉教授。研究領域は戦前日本における政―軍関係、戦争犯罪研究、日本の戦争責任・戦後処理・歴史認識問題、復員兵の戦後史など多岐。主著に『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)や『日本軍兵士』(中公新書、新書大賞2019)、『兵士たちの戦後史』(岩波現代文庫)など。