【メールインタビュー】コロナ下の「大学」 井上間従文准教授

 講義のオンライン化に伴う署名運動(署名活動についてはこちらを参照)に教員有志として参加した井上間従文(いのうえ・まゆも)准教授(言語社会研究科)がメールでの取材に応じた。

―今回の署名運動に教員有志として参加されていますが、こういった学費をめぐる運動は2010年前後の「大学オキュパイの運動」や「キャンパススト」ともつながっているとのこと。どのようにでしょうか。

 まず大きな枠組みの変化について話させてください。大学の基本的なデザインはカントの『諸学部の抗争』に描かれている理性の大学まで遡れます。つまり哲学部は実学諸学部(当時は医学、法学、神学)の誤謬を正し続けることで、結果として国家のテクノクラートの世界に理性を持ち込む。だから国家は大学という理性の王国を内部の異物として守らなくてはいけない、という非常に良く出来たテーゼです。ですがここで実際に国家を正すのは、国民の中で「賢く」あるために時間を費やすことができる一握りのエリート層です。市場に埋没する今の大学を嘆く人の中で、こうした啓蒙の大学へのノスタルジアを抱く人もいますが、これではナショナリズムへの幻影を求めるだけです。大学は人間に「国民」と「それ以外」という分割線を引き、さらに「国民」の中に規範的なものと、そうでないものとの階級化された分割をもたらす社会イメージとは異なる、より広い社会性を追求する場です。
 一方で、現在私たちが日々を生きている大学は「新自由主義の大学」です。これは、会計監査(accounting)に由来するアカウンタビリティによって、市場に向けて存在意義を日々証明しないと埋没するという危機感を内面化した大学のことを指します。財務省や中教審の方針という形で降りてくる財界の意向を内面化した文部科学省の要求を、自発的に先取りすることで、減らされ続ける交付金の穴埋めとして「競争的資金」を獲得し、どうにか資金繰りの苦しさを中和できないかと願う大学です。そうして得られた資金は多くの場合、一般の学生や教員が参加できない、限られた研究プロジェクトなどに使われます。
 こうして市場と国家の網目の中で大学が限りなくラットレースを繰り広げる状態を、イギリス出身の比較文学研究者であるビル・レディングスは「廃墟の中の大学」と言いました。レディングスは廃墟を今までの可能性が死滅した場所としながらも、同時に廃墟の住民は散らばる瓦礫を組み合わせて、新しい生き方や時間の過ごし方に役立つ道具やバリケードを作れる、と思っていたはずです。

―先ほど触れられた「廃墟の中の大学」と、井上先生が見聞きした、あるいは参加した北米や琉球大学での学生と教員の運動とはどのような関係にあるのでしょうか。

 2008から11年ごろ、ちょうどいまから10年ほど前のリーマンショック後に、北米で大規模な大学無償化のための大学オキュパイの運動がありました。これは、もちろんウォールストリートのオキュパイ運動(※)などと連動しています。
 私がよく知るのはカリフォルニア大学の事例です。カリフォルニア大学は州立大学ですが、私が学部生の頃に60万円ほどだった州住民の学費は、いまは150万円ほどになっているはずです。学生は卒業時に多額の学生ローンを抱え、それを返すために数十年を過ごします。
 大学側は州政府が予算を投下しないのが問題だと言いましたが、実はそうではなくて高い学費のおかげで市場での大学の債券格付けが上がる、そして学費は州予算とは異なり教育以外の目的、例えば利潤性の高い研究、高額の建物、さらには債券の担保などに回すことができる。学生をいわゆる「借金人間」として積極的に作り出しながら、学費を投資に回すシステムの一部としての大学を止めてしまうことで、内部に別の大学を開こうとするのが当時の大学オキュパイの流れだったと記憶しています。大学に無償化を要求すると同時に、今の大学のあり方を拒絶する運動でもあります。

 友人たちがバークレーなどでオキュパイをしていたときに、私は琉球大学で講師となりました。当時は英語の語学授業をたくさん教えていましたが、東大から来た海洋学者の理事などが、第二外国語を必修から外して、英語を同じ時間数で単位を2倍にすることで、非常勤の大幅な削減をすると言い出しました。学生と教員の有志がこれに反対し、運動を起こしました。大学にテントを張って、芝生の上でご飯を作って、一緒に食べる。資本の大学ではなくて、「無償で物と時間を共有する」大学をささやかですが実際にやってみた、という感じでしょうか。当時結成されたばかりの沖縄非常勤教員労組の方たちも参加し、その方たちともつながりができたと記憶しています。
 面白いのは、この琉大での運動がルー大柴みたいな英語しか話せなくなるね、という意味を込めて「ルー大」の運動とも呼ばれていたことです。(もちろんルー大柴のユーモアはアンリミテッド(最大限)にリスペクト(尊敬)することをアド(追加)します。)もうひとつ、この運動は辺野古や高江での米軍基地建設に反対するとてもクリエイティブな社会運動の流れをくんだものでした。具体的には、日米軍事再編に反対する「合意してないプロジェクト(Project Disagree)」という沖縄に住まう知識人や学生のゆるやかなつながりと関係していました。
 バークレーのオキュパイに関わる友人達に、こうした琉大での語学削減反対運動のビラや写真を見せたところ、占拠されたUCバークレーの英文学の教室の壁にProject Disagreeという言葉が刻まれました。当時はバークレーでも”The Necrosocial” (死んだ社会性)という理論的なパンフレットを学部生が書いたり、”We Want Everything”という個別イシュー化を阻むようなスローガンが1960年代イタリアの社会運動の文脈から再度出てきたりして、言葉の大事さにとても鋭敏な雰囲気が形成されていたと思います。

 新型コロナの感染が広まっている状況下での日本各地での学部生・大学院生の学費値下げ運動の中で、こうした10年前からの大学と資本主義とをめぐる問いが避けて通れないと考えます。知識や思考方法も含めた「知」と呼ばれるものは、確固とした持ち主がなく、受け取る人の「変容」としてしか現れない痕跡のようなものです。より現実的には、知識や知は、人々の仕事を楽にし、身体を健康にし、精神を思慮深くし、感性にある種の快楽を与えるはずです。知や勉強とは、人間が必然的に共に行う行為であり、共有するインフラであり、共有することとは何かを批判的に思考させる問いでもあります。(ここで言う「問い」とは、知識や思考を共有することで、「国民」、「人種・民族」、「ジェンダー」、「セクシュアリティ」といったこれまでの共有のリミットのたがが外れていく契機が生まれるといった意味です。)この3つの共同性―行為、インフラ、自己批判―は連動しています。
 企業やキャリア志向の研究者は知を専有しようとするでしょうが、こうした「知」も元は所有者なき学び合いの痕跡です。みんなで取り返すべきです。

―オンライン講義に関して、どのような問題がありましたか。

 主にズームがわれわれ一橋でのインフラですが、私はズームの使い勝手については良い面もあると思います。ギャラリー・ビューだと画面分割が平等なため、小規模のクラスだと教員の権威が減って良い面があるかも知れません。ただ学生の立場だと画面を見ているだけの時間も多いでしょうから、かなりの疲労感があるはずです。
 ただこのインフラへのアクセスには大学間、そして学生間で様々な差、格差、問題があるようです。税金が投下されている大学ですから、この税金を用いてルーターやPCの無償配布か貸与を行うべきです。「まずは大学が独自に頑張って」と以前文科相が発言しましたが、これは基本的な因果関係を無視した発言です。
 私大などではズームでの双方向授業もなく、PDFかパワーポイントで授業スライドを共有し、授業時間中はチャットルームで待機だけ、といった例もあるようです。大学間のインフラの差を埋めるための政府レベルでの努力があることではじめて、コロナ以後の社会でも役立つようなオンライン環境がようやく作れるはずです。
 いずれにせよ私などは普段の授業をオンラインでやっているだけです。オンラインとオンサイト(対面)の授業をいかに融合して、よりよい大学の授業をいかにするかは、今後の課題だと思います。

―大学からオンライン講義の著作権に関する要請があったと聞きました。これについてもお教えいただければと思います。

 今日の大学がコンテンツ産業として収入を確保しようとしている点は、その理由を含めてある程度は理解します。今回は煙のように浮かんで消えて行きましたが、オンライン授業を大学の著作権とするというアイデアがありました。インフラは大学からの提供ですが、内容は教員のものですので、これは的外れな提案でした。
 また前述のように知は共有財ですので、大学がコンテンツを課金制で公開することは望ましくありません。現在、アカデミックジャーナルもオープンアクセス化の動きと、Elsevier社(※※)など一つの企業が買い占めてから大学図書館に高額で売りつけるといった動きとがせめぎ合いをしています。われわれの研究には研究費や科研費といった税金がすでに投入されており、これは政府を通して公共的なお金がすでに来ているということです。したがってその結果としての研究や授業は無償で提供するのが筋であり、大学や出版社が営利目的で公開することは避けるべきです。

―今回のコロナウィルスに起因する公衆衛生危機の中で、大学にどのような影響が出ていますか。また大学で学ぶ学生や、そこで働く教職員は何ができるでしょうか。

 一橋を含む各地の大学で除籍者、つまり退学者が出ています。この数ヶ月の間で既に、大学で勉強を続けられない人、寮を出ることとなり住む場所を失う人、しばらく休学を強いられる人が出てきています。こうした状況下で、共に学ぶためのインフラと資金をどんどん要求する必要があります。
 大学院生の経済面についても強く憂慮します。北米のPhDトラックの院生などは、学費と生活費が大学から支給され、博士論文の質が最も重視される傾向に今もありますが、日本の博士課程学生は学費を払い、生活費を稼ぎ、課程の最中から学術論文を刊行しなくてはならない状況にあります。その中では可能とは思えないほど素晴らしい博士論文が一橋では書かれていて、私たち審査する「教員」側の人間たちは常にそこから学んでいます。そして、そこにさらに今回はパート労働の失業やシフト減などが重なる状況です。この状況下だからこそ政府は大学院無償化を行うべきです。
 学部生については、自治会が機能していないのでどう声を発して良いかが分からない学生が多い印象を受けます。コロナ状況下での困難を自己責任のロジックで乗り切らないように、助け合いができるインフラがほしいです。たとえば「ルーターが今日届くので、授業に参加できない」とお詫びのメールをくださる人もいます。ですがお詫びをする必要はまったくありません。自治会が役割を果たすべきですが、それが難しいのであれば、なにかオンラインで面白いグループを作って大学への要望や、困っていることを集約するなどはいかがでしょうか。そこで友達もできたり、情報が増えたり、と面白いはずです。
 この大学のアドミニストレーター(事務に関わる職員)はオンライン授業を成立するためにとても献身的だと思います。私大などでは双方向のオンライン授業はないところも多いと聞きます。教務課、学生支援課など各部署の職員の方たちの努力は大変なものであったと聞いています。そうした部分に、光が当たることが必要だとも考えます。
 と同時に、教員のアドミニストレーター(大学運営に関わる教員)たちは学生の声を聞いているでしょうか。あるいは学生の声を調査したでしょうか。北米のパブリックな大学では当たり前のことですが、学生の代表が全学レベルの会議や理事会にも参加できるしくみがは本当は必要です。
 予算に関しては、大学はアクションが取りにくいのかも知れませんが、それでもまずは動いてみて、文科省を含む政府に折衝することが大事と思います。元は税金です。主張すべきです。大学から奪ったお金を返してください、と。

※……リーマンショック以降の不景気にあえぐ若者が中心となり、2011年9月ごろから断続的に起こされた社会運動。全米の「富の象徴」であるウォール街を占拠することで、経済格差の解消を訴えた。運動は世界的な広まりを見せ、ロンドンやシドニー、東京でも同様のデモが起こった。

※※…エルゼビア。オランダに本社を置く出版社。” Cell” や” Lancet” といった著名誌をはじめ、科学技術・医療を中心に幅広い分野のジャーナル・専門書を発行する。近年は高額な購読料などに対して大学図書館や科学者コミュニティからの強い反発を受けており、特に2012年には「学界の春」と呼ばれる大規模な投稿・購読ボイコット運動が発生している。

(5月20日取材、7月24日加筆)