【国立イメージを旅する4】しょうがいしゃの暮らすまち

国立は長年、しょうがいしゃにかかわる先進的な動きの中心にあった。「しょうがいしゃの暮らすまち」としての国立を探る。

 日本初の知的しょうがい児向けの学校・滝乃川学園は、市の南西部、矢川のほとりにある。創立者の石井亮一はキリスト教精神のもと、女子や孤児の教育普及に努めた人物。社会的に排除される存在であった知的しょうがい児の教育法を米国で学び、1897年、現在の北区滝野川で滝乃川学園を創立した。

時代を経て、卒業しても帰宅や就労が困難で学園に留まる成年入所者が増えてくる。彼らの生活空間を確保しようと、移転が検討された。

複数の候補地の中から谷保村(現・国立市)を選んだのは、知的しょうがいのある3人の娘を育てた、亮一の妻・筆子だった。「矢川の清流に惚れ込んで、即決したようです」と、石井亮一・筆子記念館長の米川覚さんは語る。宿舎のほか、米国の福祉施設を参考にして、入所者が働くための農園や手工業の作業場を設け、関東じゅうから集まる入所者の生活環境が整えられた。

 

三井さん

三井絹子さん

三井絹子さん(72)は、富士見台に拠点を置く「ライフステーションワンステップかたつむり」の創立者。施設ではなく、地域での自立生活を送るしょうがいしゃの支援を続ける。

脳性マヒで身体がほとんど動かない三井さんは、文字盤を指差して会話する。20歳で障害者施設に入ったが、入所者の自由や意思を無視した処遇に抗議し、東京都などとの交渉や座り込みを1年9か月続けた。72年、活動の支援者だった俊明さんと結婚。75年に施設を出て、国立で暮らしはじめた。

初めて国立で家を借りるとき、差別と偏見で100以上の業者に断られたという2人は、自立生活の練習の場「かたつむりの家」を市内に用意。施設を出たいと望むしょうがいしゃが全国から押し寄せた。自立希望者は、街頭での介護者募集をはじめ、人とのコミュニケーションを主に練習した。「しょうがいしゃは施設で『生かされていた』存在。自分から意思を伝え、関係性を築けるようになってもらわないと」。協力してくれる介護者を確保し、意志が確立してきたら自ら借りた家に移る。これまで約100人以上が自立した生活を実現した。

三井さんは行政との交渉にも長年取り組み、在宅介護制度の拡充に貢献してきた。2000年代以降は、市の福祉計画策定委員会などにも参画。障害者自立支援法で介護の質低下が懸念された際も、在宅しょうがいしゃのニーズを満たす市独自の制度を実現させた。

「世直しお絹」の活動に終わりはない。全国各地で講演を依頼され、日常的に団体のしょうがいしゃや介護者とともに出かけている。市内の温浴施設とも10年にわたって交渉を続け、今年8月に入浴専用車椅子での利用を認めさせた。「一度でいいから自分の意志で好きなことがしたい。そう思って施設を出て以来、人間として生きる権利があるんだと知り、どんどん勉強してそれを勝ち取ってきた。だから今の明るい生活がある」

 長年、しょうがいしゃが生きる場を獲得する活動の中心にあった国立市。その歴史は市政にも少しずつ反映されている。05年には「しょうがいしゃがあたりまえに暮らすまち宣言」が議会で可決された。
永見理夫市長は現在、さまざまな差別問題を包括した「人権・平和基本条例」の制定を目指す。市長室長の吉田徳史さんは、当事者の多様な声を取り入れた条文づくりに取り組んでいる。「人権と平和が全施策の根底にあるという理念を、後世に残していく。互いの苦しみを完全に理解することはできないが、どんな人々にも思いをはせられる町にしたいですね」


かたつむりで支援を受け、国立で自立生活を送る井上晴菜さんが自らの体験を伝える劇「はるながまちにやってきた」が、12月17日18時30分から、くにたち福祉会館で行われる。三井さんの半生とかたつむりの活動も紹介される。入場無料。詳しくはライフステーションワンステップかたつむり(042・577・1891)まで。