戦争と一橋生 フィリピンで逝った12名の学友たち

 第二次大戦で戦死した東京商大生の慰霊団体・一橋いしぶみの会は、第48回一橋祭で、企画展「戦争と一橋生」(協力:一橋新聞部)を開催した。

 一橋いしぶみの会は、一昨年の一橋祭から、戦没学生の経歴や戦時中の大学の様子を紹介する展示を行っている。今回のテーマは「フィリピンで逝った12名の学友たち」。志願や召集、学徒出陣によって出兵し、フィリピンで命を落とした12人の卒業生の足跡をたどった。

 フィリピンでの戦死者に特徴的なのが、「現地応召」を受けた「市民兵」の存在だ。1941年、日本軍は真珠湾攻撃と同時にフィリピンに侵攻し、その後占領した。大東亜共栄圏建設の中心になったマニラには、経済基盤構築のために日本企業が進出。総合商社やメーカー、金融業で働く数多くの商大卒業生が管理職として赴任していた。

 44年10月、米軍がフィリピンに侵攻すると、日本軍の主要部隊はマニラを離れて山間部に移動した。マニラに残された民間人保護のため「無防備都市宣言」を発する案もあったが、日本軍の中枢がこれを拒否。結局、民間人が市民兵に登録され、米軍の攻撃を受けた際には首都マニラを死守することを命じられる。

武正新顔写真

武正栄(卒業アルバムより)

 商大柔道部で活躍し、31年に本科を卒業した武正栄も、そうした市民兵の一人だった。武正は住友海上に勤務し、42年からマニラで働いていた。

 45年2月3日、武正は如水会マニラ支部の会を主催。柔道部の一つ先輩にあたり、同じく仕事でマニラに赴任していた秋竹守一ら卒業生7人ですき焼きを楽しんでいた。その最中に米軍のマニラ侵攻が伝えられ、武正と秋竹はそのまま市街戦に参加する。米軍はマニラ中心部の包囲を進め、追い詰められた武正・秋竹ら市民兵たちは、22日から国会議事堂に立てこもった。26日夜明け頃、秋竹は武正のもとに駆けより、「外の空気を吸ってから死のう」と誘ったが、武正は「同じ隊の仲間とここで死ぬ約束をしたから」と断った。その直後、議事堂は戦車砲と火炎放射器の集中砲火で炎上・崩壊した。

 武正を残して外に飛び出した秋竹は、砲撃の雨をかいくぐり、市民兵のうちわずか5名しかいない生還者の一人となった。

 調査にあたった竹内雄介さん(昭49経)は戦没学生について、「なにもなければ普通のサラリーマンとしてキャリアを積んでいった人たち。彼らが社会の流れに巻き込まれていく様子を感じてほしい」と話した。