現在の国立市にあたる旧・谷保村は、甲州街道に沿って人家が並び、文明開化以降ものどかな農村の生活が続いていた。1923年、東京商大(一橋大の前身)の移転先に決まった村北部の雑木林は、教育環境を保つために高級住宅街として開発され、「国立」と命名される。ただ、当時の住宅街としてはあまりに都心から遠かったことに加え、開発直後に昭和恐慌が発生し、宅地の売上は伸び悩んでいた。

それでも終戦間際から、武蔵野の自然と教育環境に惚れ込んだ移住者が増えはじめる。44年に6000だった谷保村の人口は、50年頃まで年間1000人ペースで増加。その大半が国立地区への移住で、都心に勤務する高学歴ホワイトカラーとその家族が多かった。国立誕生地図

国立コミュニティの形成

元来の地縁が薄い国立地区の移住者たちは、彼ら同士で新たなコミュニティを形成してゆく。GHQにより解体された隣組に代わって48年、「国立会」を結成。行政や警察への陳情を行うなど、戦後の民主国家にふさわしい自治組織のあり方を探っていた。

国立会は文化活動も重視した。村の広報もない時期から、月刊の会報『国立文化』を発行し、合唱や古典読解のサークルを開いた。自分の所有する書籍を登録して、住民同士で貸しあう「無形図書館」制度も考案した。

生活基盤が発達しきっていない国立では、「自分たちの手でいい街をつくろうという気概があった」と、当時から住む男性は振り返った。

朝鮮戦争と国立の変容

50年に朝鮮戦争が勃発し、日本が共産勢力への防衛線と位置づけられるようになると、国立地区の雰囲気もにわかに変容する。米軍立川基地が極東一の輸送拠点となり、駐留部隊が増強されると、立川の街は米兵を相手とする日本人娼婦(パンパン)で溢れたが、その一部が国立でも商売をはじめたのだ。さらに、「村の税収確保のため、国立駅北口に歓楽街の建設が検討されている」という噂まで流れだした。

これに対し国立地区の母親から、子どもへの影響を心配する声が上がった。そこで国立会は、風俗業を一掃するため、国立地区を文教地区に指定できないか検討をはじめた。

文教地区とは、戦後の東京で、学問と芸術の拠点となる地域を指定し、周辺環境を整備しようという都の構想だった。50年には指定地域の風俗業やホテルの出店を禁じることまで可能になっていた。

文教派の団結

谷保村が国立町に変わった51年5月初旬、文教地区指定を目指す「浄化運動期成同志会」が結成された。14日から国立地区での署名活動を開始。同志会婦人部が中心となってわずか3日間で3000筆を集めた。「国立会での日常的なつながりが、素早い活動を可能にしたのでしょう」(田崎宜義・本学名誉教授)

署名活動開始と同じ日、一橋大の教授会や学生大会でも文教地区指定要求が決議された。当時の中山伊知郎学長は、文部省と都へ陳情に赴いている。大学にとっても、理想の学園都市として開発した国立の風紀悪化は、どうしても避けたかったようだ。

これらの要求に町議会が応じ、文教地区指定を具体的に検討する委員会が5月末に設置された。

反対派の攻勢

指定に強く反対したのが、国立地区の商店主たちだった。出店規制によって町の経済発展が妨げられることを懸念した彼らは、6月中旬には国立駅前に指定運動を批判する看板を掲げた。文教派の一部が共産党員だったことに目をつけ、反米運動に結びついているという文言もあった。一方、文教派の大学生が反論ビラで対抗、反対派が暴力団を雇うなど、一触即発の事態となった。

他方、指定対象でない南部・谷保地区にとって、論争は対岸の火事という感覚が強かった。ただ、反対派が「指定によって町の税収が落ち込む」という主張を強めると、谷保地区でも反対論が強まった。反対派は谷保地区を集落ごとに訪問して2300の反対署名を集め、6月初旬、議会に指定反対請願を提出した。

紛糾の末

反対請願の提出以降、議会は紛糾を極める。文教派の一部からは、谷保地区出身議員の反対で指定が阻まれた場合、町を南北に分けようという「分町案」まで出てきた。町の論争は全国ニュースにも取り上げられ、7月には文教派の呼びかけに応じて、参議院文教委員会の4議員が視察に訪れている。

ただ、8月に入ると、国立地区の商店街から、文教地区指定を容認する声が上がりはじめる。さらに、指定反対と目されていた佐藤康胤町長(谷保地区出身)も「文教地区に指定されても財政的な不安はない」と発言。両者とも、文教派による不買・地方税不払い運動を警戒したものとみられている。

反対派の勢いが衰えを見せるなか、9日の議会で反対請願が却下され、文教地区指定が正式に決まった。13対12の1票差だった。

戦後に急増して町の多数派を占めた国立地区の住民は、移住者ならではのフラットなコミュニティを構築し、まちづくりに積極的に参画した。学歴が高く、都心で収入を得る彼らの理想は、国立に歓楽街を誘致して町を富ませることではなく、住まいと教育の環境を整えることにあった。こうして、商大の理想であった学園都市構想が、住民の手によって継承されていく。

一方、谷保地区には農村の雰囲気が残り続け、中央線沿線の都市化に遅れをとっていた。高度成長のなか、どのように地域の経済基盤を固めるかが、長期的な課題として残りつづけた。