芸術を評論することのひとつの意義は、作品に触れることで浮かび上がった、記憶の波打ち際にある感動のイメージを言語化し、つなぎとめておくことにある。不躾な評論は元の印象に不必要なパテを塗り込め、歪ませる。対して本書のような、優秀な評論は読者自身の感動をより鮮烈にする。
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著者であるドビュッシー(註)自身、一般に「印象主義」と呼ばれる作風で一時代を築いた著名な作曲家であるが、本書の評論において、作品を楽典的に分解してみせることはない。作曲者が旋律の配置ひとつひとつに込めた意図やそれによる効果をあくまで感覚的に描写する。たとえばバッハの、個々に独立性をもたせたまま複数の旋律を重ね合わせていく洗練された作曲技法そのものへの賞賛は溢れるほど評論家たちに語られてきた。しかし著者はその繊細に構築された旋律をアラベスクの唐草文様に喩えた上で、「バッハの音楽において、人を感動させるのは、旋律の性格ではなくて旋律の曲線である。……数条の線が並行して動き、偶然に出会ったり、しめし合わせて出会ったりするとき、感動をよび起こす」と述べる。そしてその音楽を「聴衆の心に感銘を与えるような一つの揺るぎない仕組を掌中に収めている音楽、心のなかに眠っている映像を湧き立たせるような音楽」と形容する。バッハの旋律が持つ独立性は「旋律の曲線が出会う」という言葉によってイメージ化され、また「仕組」という単語は、バッハの幾何学的な旋律の構造に与えられるに相応しい。こうした著者の的確且つ美しい指摘は、読者が抱える感動の中身には手を触れないまま、その輪郭を際立たせる。自らの感動の仕組を覚った瞬間のある種の爽快感は、作品そのものへの感動をさらに深く、鮮明に印象付ける。
こういった楽曲や演奏会の活写、或いは当時の音楽に対する意識への辛辣な批判、それらに漂う簡潔で美しい表現の数々やウィットと知性の根底には、気難しくも品が良い著者の、音楽への深い愛情があることが本書を通して伝わってくる。この愛情は信仰心に近い。芸術は「愛および許されたエゴイズムで成り立った宗教」であり、その神秘を解釈し分解することは冒涜的でナンセンスなのだという。そして冒頭の章で著者は、「一切の寄生的な美学から自分の感動を防御する自由」を自らに残しておく配慮について断わりを入れている。外部の独善的分解を遮断することで作品と自己の純粋な関係を確立し、作品の神秘性が護持されるからこそ、芸術に対する自らの純粋な感動が味わえるのだろう。批評の隅々へ行き届いた著者のこの音楽の神秘性への執着が、本書を美しく趣深い音楽評論たらしめているのだ。
註:Claude Achille Debussy (1862~1918)
近代のフランス人作曲家。それまでに古典派が築き上げた概念にとらわれない独自の旋法が特徴的。感情過多なロマン派を嫌い、事物の幻想的イメージを音で捉えようとしたその姿勢は印象派の音楽を生み出した。代表曲は「月の光」(1882)「牧神の午後への前奏曲」(1894)など。