18歳選挙権導入後初の国政選挙にあたる参院選が7月10日に実施される。全国の高等学校では、高校3年を対象に「主権者教育」が行われている一方、今の大学生は、「主権者教育」を受けずに選挙権が与えられることとなる。

 いま、高校現場でどのような教育が行われているのか。これまで、主権者を育てる教育は行われてこなかったのか。そもそも主権者に求められる能力とは。教育社会学を専門とする中田康彦教授(社会学研究科)に話を聞いた。

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――「主権者教育」とはなんですか?

 主権者教育は大きく2つの意味で使われています。ひとつは、選挙権を持つ人に投票を促す有権者教育。もうひとつは、投票行為に限らず、政治や社会のあり方を考える主体を育てる教育です。

 主権者教育という言葉は70年代からありましたが、生活指導や生徒会活動において自治能力を育成する独自の取組にとどまっていました。それが、18歳選挙権導入をきっかけに、文科省は、全国の高校で選挙制度や投票方法について教えることを「主権者教育」として推進するようになったのです。

――戦後日本の教育現場全体で、社会の主体を育てる取組は行われてきたのですか?

 40年代、民主主義が戦後教育の理念として掲げられ、その実践を目指して社会科が導入されました。この時期は、学習指導要領も試案として出されるだけで、教員と生徒がともに授業や学校生活を作るという空気がありました。これに生徒の主体性を育む効果があったと考えています。

 それが50年代、「逆コース」と呼ばれる占領政策の転換をきっかけに、教員の政治的中立が求められるようになり、学習指導要領も法的拘束力を持つようになりました。社会の主体を育てる教育は生徒の自治活動だけになりましたが、安保闘争に影響された高校紛争が発生した69年、学校内での一切の政治的活動を禁じる文部省通知が出されます。主権者教育という言葉が使われるようになったのもこの頃からですが、受験勉強への重視や生徒の人間関係の変化もあって、全国的には自治活動の魅力は失われていきました。

 98年告示の学習指導要領では、生徒の自主性や創造性を育むことを目指して「総合的な学習の時間」が導入されました。学習内容も現場の自由裁量が認められたのですが、かえって多くの学校では何をしていいかわからず、うまく利用できない状況に陥ったのです。

 ただ、民主主義を目指した戦後教育に、曲がりなりにも成果はあったと考えます。生徒会に限らず、中高での組織的活動の経験などから、話し合いを無視して権力が暴走することに歯止めをかける空気が生まれたのではないでしょうか。

――「主権者教育」に対して、どのように評価・懸念しますか?

 文科省は昨年10月、先述の69年通知を廃止し、授業で実際の政党名や選挙の争点を扱って模擬投票を行うことを認めました。文科省と総務省が共同制作した高校向け副教材にもこれが反映されていて、それなりに踏み込んだ内容だという評価もあります。

 ただ多くの学校現場で、模擬投票だけで「主権者教育」をやった気になって、目標を定めた長期的な教育が出来ていないのではないでしょうか。

 また、政治参画を促す「主権者教育」が推進されている一方、学習指導要領一部改正によって道徳が「特別の教科」にされるなど、規範意識を育てる教育も拡充されつつあります。これらの相互作用で、社会の一員としての責任ばかりが強調され、社会の主体として欠かせない批判的な認識能力が育たないという懸念もあります。

――主権者教育で育てるべき能力はなんですか?

 物事を批判的に認識するとともに、自分に引きつけて考える能力が求められます。問題を他人事としてではなく、もし自分が当事者だったらと想像力を働かせることで、どうしたらいいのかを主体的に考えることができる。

 当事者性を持った想像力は、ある問題について対話をする「関係」 の土台となります。対話を経て合意形成がなされると、同じ目的や行動を持つ「共同性」が生まれます。このプロセスこそ、単なる投票・多数決だけでは決まらない、人と人が関わりあう社会を作るのに必要なのです。

――今の一橋生は「主権者教育」を受けることなく選挙権を得るわけですが

 若者の政治離れは主に無知・無関心・無気力が原因にありますが、一橋生は前の2つはクリアしていて、「どうせ変わらない」という無気力が強いと思います。生活のあらゆる場面で、自分が発言し行動することで現状を変えていく経験を積めば、それを政治にも活かしていけるのではないでしょうか。

 また一橋生は多くの場合、物事を批判的に捉える能力が非常に高い一方、安全圏からのありきたりな思考と発言にとどまってしまいがちです。レポートなどでも、「なぜ問題は解決しないのか」「自分とどのように関わっているのか」という当事者性をもった姿勢を持つことに意味があると思います。