国立駅から立川や八王子に向かうとき、高架駅舎から窓ガラス越しに三角屋根を見ることができる。そして、春になれば、建物の中に入れるようになる。
国立駅舎復原をめぐる連載の第3回。国立駅舎、ないし国立というまちについて調査している、くにたち郷土文化館の学芸員である中村良和さんに話を聞いた。
国立駅舎と中村さんの出会いは学生時代。陶磁器に興味があり、たましん歴史・美術館で行われた陶磁器の展覧会に市外から向かうことがあったという。建物にも興味があった中村さんは、行く際に利用した国立駅舎が印象に残ったと話す。大学卒業後は別の場所で学芸員をしていたが、今から約4年前にくにたち郷土文化館へ奉職。あの駅舎のあった場所だと思い出し、駅舎の歴史を考察し始めた。
「国立という『まち』ができ、その分譲が始まったのが大正15年の4月からですね」――駅舎、そしてそれをめぐる大学町の歴史について、中村さんはとうとうと語る。国立駅舎が今のように郷土と切り離せないものとなった理由として、中村さんは国立大学町が開発された当初からあった建物であることをあげる。「大学町の造成当初には、駅舎と、国立食堂など洋風の建物数軒があるのみでした。大学町ができた当時を伝える建物が残っていることは、このまちの出発点を振り返るうえで有効だと思います」。また、大学通りから駅舎が正面に見えるように設計されていることも印象に残りやすいと思うと中村さんは言う。
それに加えて、中村さんは、「駅がある」ことが国立のポイントとなってきたという。国立、特に大学町の人々は、町から外へ出る場所であり、帰ってきたら出迎えてくれる場所として駅舎を幾度となく目にし、通過する。何度も見る・向かうことで、市民のコミュニティの結節点のひとつとなっていたのではないか、と中村さんは言う。そして新しく国立に来た人にとっても、大学町創設当時からの駅舎と出会うことは、まちそのものに興味を持つきっかけにもなりえたのではないか、と語る。
中村さんは館のブログに駅舎について調査した結果をまとめている。なぜ中村さんは「駅舎」を「書き」「つづる」のだろうか。中村さんはこう答える。「このまちの歴史に興味を持ってもらいたいからです」。駅舎について知ったことを自らの中に留めていたのではもったいない。それゆえに、一般の人に発信することで興味を持ってもらいたいのだという。そして、それをきっかけに駅舎やまちについて調べる人が増えてほしいと話す。
現在、中村さんは駅舎の復原作業が終了する来年4月ごろの開催をめどに、駅舎の関連展示の準備を行っている。駅舎は開業当初の姿で復原されるため、解体された当時の駅舎になじみがある人にとっては戸惑いをもって迎えられる可能性がある。そうした人々に対して「開業当初」の駅舎が持つ意味を、小平や大泉学園といった箱根土地株式会社が開発に携わった住宅地などを絡めながら、表現する展示にしたいという。
駅舎の復原について、中村さんは「造成当時の大学通りが残っている状態で、そこから見ることを想定された、開業当時の三角屋根の駅舎が戻ってくれるのは嬉しい」と話した。そして、学芸員として、復原を機にまち・郷土の歴史に目を向ける人が増えてくれれば、その点でも嬉しいと語った。
ランドマークとしての駅舎、そしてそれが与える国立というまちのイメージがわかり始めたと思える取材だった。