国立駅舎の復原は、歴史的な背景のみに影響を受けたものではない。復原という現象には、市民の感情・活動が交錯している。今回は、駅舎の復原に作用したそのような市民の動きとして「赤い三角屋根の会」の活動を取り上げる。会長の伊藤孜さん、会員の中町仁治さん、同じく会員の能村直人さんをたずねた。
「赤い三角屋根の会」は、高架化に伴う旧駅舎の解体に際し、旧国立駅舎の保存・活用や国立のまちづくりを市民が主体的に行うための団体として、2001年に設立された。
伊藤さんは、国立に75年と長く住む身として、旧国立駅舎の「国立市民の原風景」としての重要性を認識していた。1級建築士でもある中町さんは、三角屋根の会とは別の駅舎についての勉強会での出会いを通して、旧国立駅舎にまちづくりの基点として価値があると思い参加した。能村さんは、建築学部時代にゼミの自主課題を課された際、当たり前のものが解体されるという寂しさから地元にあった旧国立駅舎を、取り上げた。これをきっかけとして、会の活動に参加した。
会の活動は保存がメインだと見られがちだが、一番大事なのは駅舎と一橋大学と国立という街が一体となって育ってきた歴史をふまえ、駅舎を将来に活かすことだという。会員の中町仁治さんは「市民の一人一人の心の中に駅舎を残していくことが、周りの街とは違う『素敵さ』を生み出せる」といった。活動の趣旨はこうした「素敵さ」が国立にあり、かつそれを生かしていくことでより「素敵」な街になる、と市民に伝えることだった。そしてその「素敵さ」を生み出す旧駅舎が解体されることをどう考えるかを市民に問いかけていくことだった。
このような活動の中で一番印象に残っていることは南口前の円形公園を舞台として1時間だけのクリスマスコンサートを行ったことだという。中町さんは「町全体が本当に『素敵』な姿で、街中に全部に歌声が響き渡っていたよう」と振り返る。このイベントも、ライトアップされた駅―大学通りの直線の中に市民が入り込むことによって一体感を作り出し、駅舎の価値を認識してもらいたかったという。
コンサートについて、能村さんは「駅舎を残そうと思っていない人でも、自分たちが歌うことで、こんな使い方があるんだと気づいてほしかった」と語る。
そのほか、駅構内や円形公園など、駅舎が見える場所で展示・企画を行うことで、駅舎についての意識を高めることを目指した。市に対しての意見提出を行う際は、1級建築士である中町さんの技能を生かして、直感的にイメージが伝わるように会全員で協力して模型やパネルを作成。署名を集め、JRや市に持ち込んだこともあった。
駅舎の復原が決まったことは素直によかったという。その一方で、国立独自のまちづくりに向けて旧駅舎を積極的に活用していくという側面を理解してもらいきれなかったと悔いた。能村さんは「(活動の中で町全体が)盛り上がれる要素はいくつもあったのだけれど、十分に盛り上げていくことができなかったのではないか」という。市民一人ひとりがコミットできるまちづくりの形態を目指したが、その点においてももっとうまい方法があったのかなと考えるという。
会は市民が、個々人として駅に対して持っている思いをまとめようとする役割を持っていた。だが、今思い返すとその役割を十分果たせたとは言い難かったという。中町さんは「高架化後の駅自体にも独自のアイデンティティを確立させることができたはず」と話した。
中町さんはこのような独自性を持たせることで、街・関係者全体にとってより価値のあるものになれるという可能性があったが、それがどんどんなくなっていってしまったと回顧する。解体時のみならず高架化の際にも、市民や有識者に対する会合があり、その際にホームの吹き抜け化やホーム上の展望スペースの設置等を提案したが、結局実現しなかった。
復原された後の旧駅舎については、駅舎・円形公園・大学通りといった空間を、自由に用いるシステムを構築していくことが大切だという。そして、何より市民や一橋生が、自らそうした「空間」でどのようなことができて、自分たちならこうする、といったビジョンを持っていくことが、重要だと締めくくった。
「お前の街だろう、知らん顔するなよ」「自分が暮らしている町だ、自分たちで創ろうよ」。これは、会の活動の反省を語っている時にこぼれた中町さんの一言だ。駅舎の存在は、国立という街のアイデンティティ、そして、市民の生活と分かち難く結びついている。そのことを、今回のインタビューを通して再認識させられた。