3月のある日、大学通りを西キャンパスから北に向かった。自転車で大学通りの専用道を走り、駅前の商店街を抜けると、中央線の高架の手前、工事用の防音壁の向こうに、灰色のシートで覆われた構造物が見えてきた。現在再築中の旧国立駅舎だ。
旧国立駅舎は、中央線連続立体交差化事業に際し、1993年にJR東日本より解体が発表された。しかし、旧駅舎の保存を望む市民が多いことから、国立市は2006年に駅舎を国立市指定有形文化財に指定し、駅舎が解体された際、部材を引き取り保管した。13年に高架化事業が終了したのちは、旧国立駅舎の当時の姿をよみがえらせる再築作業が、20年度完成を目標に行われている。
国立駅でかつて駅長を務めた堀越義克は、『駅の歴史 国立駅』の中で以下のようにつづっている。「一ッ橋大学が出来るということで国立駅が設置されるようになった」。つまり、国立駅の成立を知るためには一橋大学、そして国立大学町全体を知ることが不可欠ということだろう。では旧駅舎を生んだ「国立大学町」はどこからやってきたのだろうか。
1924年8月、当時谷保村の村長を務めていた西野寛治は、箱根土地株式会社(現株式会社プリンスホテル)の社長、堤康次郎から、雑木林だった谷保村の北部を地主から買収し、学園都市とする計画を持ち掛けられた。堤は、第一次世界大戦後の工業化や都市の過密化を見越して、西洋をモデルとした郊外に大学を中心とした文化性の高い「学園都市」を建設し、中間層・富裕層を住まわせようとしていた。
この計画に対応するように国立に動いたのが東京商大(現在の一橋大学)だ。東京商大は、1920年に高等学校から大学に昇格して以降、神田一ツ橋にあったキャンパスが手狭となり、かねてから移転の計画を進めていた。『駅の歴史 国立駅』によれば、移転計画中に関東大震災によって校舎が全焼したことを受け、佐野学長は「人命尊重の観点から安全で、然も環境の良い所」へ移転を決意。友人であった堤に大学移転の話を持ち掛けたという。
1925年11月15日付の本紙は、佐野学長が移転に際して発した談話を報じている。その中で、佐野学長は以下のように述べている。「理想的の大学都市は、高尚な住宅地に囲まれてこそ初めて実現せられるのである(ママ)」──このような佐野学長の意向もあって、国立では文化的な街づくりが進められた。当時の広告を見ても、工場や風俗を乱す営業を排除する、景観を損なうバラックづくりの建造物を認めず本建築を最初から行うべき、といったことを明言している。
1925年9月に、東京商大と箱根土地の間で土地契約に関する契約と、それにまつわる覚書が結ばれた。覚書では、上下水道や電力網の整備や、停車場=駅を「入念に建築する」とともに停車場の前に広場を設け、そこから通りを施工することが定められた。この覚書に基づいて、箱根土地・商大の両方から設置に向けての交渉や通りの開発が行われた。こうした流れの中で、国立駅は箱根土地が旧駅舎・駅前広場を建造し、鉄道省に寄付する形で設置された。そして、国立駅前の広場から大学通り・旭通り・富士見通りが放射するという「国立大学町」の基本構造が形作られた。
このように「国立大学町」は古くから存在した町ではなく、人為的にかたちづくられた町であり、既存のシンボルが存在しなかったといえる。そのうえ、国立駅は町の中央を貫く大学通りの先端に置かれ、町の玄関口として機能した。こうした背景から、旧国立駅舎は国立大学町の街づくりを象徴する文化的なものとして建造され、盛んに喧伝されてきた。
────次回は、国立市民から見た「旧駅舎」を追う。
Ⅱ 国立市民と旧駅舎復原(7/7更新予定)