1940年発行の本紙300号。「迎皇紀二千六百年」の文字が大きく掲げられている

 本紙は今年、1924年の創刊から100年を迎える。大正から昭和、平成を経て令和に至るまでの4つの時代を通じ、本紙には学生の視点に基づいた様々な記事が掲載されてきた。この企画はそれらの記事を通して、読者とともに本学のこれまでの歩みを振り返ろうとするものである。
 前回は、1930年代初頭の本紙に寄稿された、世界恐慌に対する批評文を扱った。今回は、いよいよ戦争に突入していく時代、そして戦時中という状況下での本紙の動向を見ていきたい。本学と本紙が、どのように戦争と向き合っていたのかを振り返っていく。

 まずは日中・太平洋戦争が始まる1930年代後半より前から、軍靴の音が本学へ歩み寄っていたことを説明しなくてはならない 。時計の針を1920年代初頭まで戻せば、日本では制限選挙制が敷かれており、普通選挙を求める意見が強まっていた。
 1925年に普通選挙断行を掲げる加藤高明内閣が成立すると、満25歳以上のすべての男子に選挙権を与える“普通選挙”が実現する。しかし政府は同時に、普通選挙の実施により、反国体的な勢力が国会で議席を獲得することを危惧した。1910年代後半に起きたロシア革命により、国内でも共産主義の影響が拡大していた状況も踏まえ、政府は同法と抱き合わせの形で治安維持法を成立させる。同法は、反国体的な共産主義者を取り締まることを目的とした法。以後20年に渡り、同法を根拠とした言論・思想統制が行われるようになる。これらの統制は教育の場にまで及び、本学もその例外ではなかった。

【大学当局による言論弾圧】
 治安維持法による本学への言論統制が初めて行われたのは、1933年のことである。マルクス経済学の立場を明らかとし、当時の学内の左翼系学生に大きな影響を持っていた大塚金之助教授が、同年1月10日、警視庁特別高等警察官に逮捕された。逮捕を受け、大塚教授は直ちに辞職届を提出したのだが、逮捕と辞表提出を巡り、本紙予科版は「官憲の弾圧から大塚教授を擁護せよ」との主張を紙面に大々的に発表する。思想弾圧を強める政府・文部省の圧力に屈した本学当局はこの発表に対し、その発行責任者である新聞部員に無期停学などの厳しい処分を下した。これだけに留まらず、今後の本紙の原稿をすべて事前検閲することを決定する。この決定に抗議の意を表明するため、新聞部員全員が退部し、3か月ほど新聞の発行が止まるという異常事態に追い込まれた。これ以降、紙面での表立った政府への批判はできなくなる。

【強まる検閲と方針転換】
 1939年、反戦を唱える学生たち数十名が警察当局により検挙される。この中には新聞部員も含まれており、当時の新聞部は激化する言論弾圧に対し大きな危機感を抱くことになる。結果として、新聞部は言論を維持するためにも、時代に迎合することをやむなくされた。本紙300号(1940年1月1日発行)の1面にて「迎皇紀2600年(※)」 と淡々と表記してあることからも、この迎合をせざるをえなかった当時の状況が伺える。

1940年発行の本紙300号。「迎皇紀二千六百年」の文字が大きく掲げられている

【太平洋戦争と一橋】
 日本海軍による真珠湾への奇襲攻撃を機に、1941年12月8日、太平洋戦争の火蓋が切って落とされた。全面戦争の突入により、国民生活にも大きな影響が出ることになる。当時の本紙でも、本学への影響の記憶が書き綴られている。本紙346号(1942年4月25日発行)には、同年4月に発生した本土初空襲時における本学の様子が取り上げられている。以下、記事の一部抜粋である。
 「空襲警報が武蔵野の広野に震撼させて鳴りわたつたのは、授業も終わり書食もすましてぼちぼち学生の帰路につくころであつた。警報発令と共に教務掛の岩田さんは今迄とつていた事務を打ち棄て早速ゲートル。戦闘帽のいでたちもかひがひしくメガホン片手に学園のすみからすみ迄自転車を走らせて「退避せよ退避せよ」と連呼する。教門を出かけていた学生も早速付近の建物の下に入る。(中略)暫らくすると遠山配属将官に引率された専門部中和寮生二十数名が隊伍整然と正面玄関に到着、直ちに御真影の警護に配備される、(中略)警報発令と同時に図書館屋上には空襲警報の赤旗が風にひるがへり門衛さんが二人と学生一人が双眼鏡とメガホンを手にしてきつと空を仰ぎ敵機の来襲を待ちかまえる。(以下略)」
 空襲では付近に「敵機」が来ることもなく、被害は出なかったようだが、記事からは、職員・学生一丸となって、組織的に空襲に備える制度が出来上がっていた様子が伺える。
 戦争の影響は、授業内容にも及んでいた。紙面での授業紹介の欄では、「東亜経済論」「戦時経済論」「日本産業論」といった授業名が並び、戦争に即応したものに置き換わっていたことが読み取れる。

【戦局の悪化と活動停止】
 戦局が次第に悪化していく中で、兵力の不足を補うことを目的に、学徒出陣がなされることが決定する。1943年のことだ。対象は高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生であったことから、文系単科大の本学の学生は、その多くが戦地へ赴くこととなった。当時の本紙は、勤労奉仕や戦意高揚のための言論的指導の役割を担わされており、学徒出陣を報じる記事に、当時の報道姿勢がよく現れている。本紙372号(1943年9月25日発行)では、「一橋の誇りを胸に抱き 決戦場へ 我等征かん」と言葉が、一面に踊っている。  
 新聞部に関しても、部員の多くが学徒出陣に動員されてしまい、同年10月には休刊となっている。
 出陣学徒と母校の連絡をつなぐための必要性から、わずかに残された学生の手によって翌年1月には復刊するものの、4月に学生新聞を一つにまとめるとの通達が政府情報局からもたらされる。全国の学生新聞を統合したプロパガンダ紙「学生新聞」は、発行を東大新聞社に一元化し、他の大学は編集員などを派遣するというものであった。本学と東京工業大の新聞部は、この決定に猛烈に反対するものの、結局は押し切られてしまう。本紙はこの決定後もなんとか新聞の発行を試みるも、警視庁からの発禁命令が出され、ここに、一橋新聞の発行は完全に停止することになる。一橋新聞が活動を再開するのは、終戦翌年の1946年のことであった。

(※)皇紀とは明治政府が独自に設定した年号で、神武天皇即位の年を元年と置いた。1940年は神武天皇即位後2600年の年であった。