教授の昼食はサンドイッチとコーヒー、シリアルとはちみつを混ぜ込んだヨーグルト、という簡単なものだ。「昼食は昔から自室でさっと済ましちゃうんだよね。せっかちなせいかな」
幼い頃、ベトナム反戦運動の盛り上がりを見た影響もあってか、教授はアメリカと東南アジアの関係に興味を持ち、79年、本学法学部に入学。国際関係課程を専攻した。
しかし、法学部に属する国際関係「論」よりも、社会学部が受け持つ国際関係「史」がより自分の関心に近いことに気づいた教授は、現代アメリカ史が専門で、社会学部所属の油井大三郎教授のゼミにも出席するようになった。中野教授は、ほかにも学生時とは違う研究科に所属する教授が多いことを挙げ、「学部の垣根が低いのが本学の特長っていうじゃないですか」と笑う。
学部生時代には、演出家という夢も持っていた。実際に学外の劇団で演出助手を担当し、俳優の卵たちと共に芝居を作りもしたという。しかし活動を重ねていく中で、その難しさも肌で感じることになった。「そうすると、自分が向いてないって分かるわけ、あれは強いリーダーシップがないとダメだね。向き不向きがあるよ、やっぱり」
教授に「向いていた」のは、「面白い論文を書くこと」だった。歴史学は、「きっちりとした学問的手続き」と「その歴史家のオリジナリティーが発揮される主観」の二つの部分が合わさってできる作品だ、と教授は語る。
研究職を目指す決意を固めた教授は、社会学研究科に進学し、フィリピンの独立をテーマに博士論文を書き、90年に、神戸大学の講師に就任した。
神戸大学勤務中には、日本が研究対象に加わった。第二次世界大戦時、フィリピンの人々が日米戦に巻き込まれた際の心の傷が、米比関係にも影響を与えていることに気づいたためだ。99年、一橋に赴任してからは特に大きな被害の出たマニラ市街戦の研究に力を入れている。
教授が研究を通じて目指すのは、戦争などの大規模暴力が起きたあとに、当事国同士の「望ましい、質の高い、和解」を実現させることだ。現在では、歴史認識問題が政治や外交を動かす大きな要素になってしまった。歴史学はそうした問題の解決に貢献し、さらに、人々がどのように「過去、歴史に対して謙虚になれるか」を共有したいと語る。
また教授の研究も、数百年後には史料のひとつとなる。未来の世代への貢献も、歴史学の責務だ。加えて、「直接の戦争体験がある人から話を聞いて」いて、「事件からちょうどいい距離を保てる」今、学生である世代も重要な役割を持つとも語った。
「歴史学は哲学と同じくらい、人類の基礎的な営みの一つなんじゃない。過去を振り返らずにいられる社会はないし、そういう意味では歴史学というのは社会の持つ必然的な部分なんじゃないかな」