国立駅から大学通りを自転車で走る。チェーン店に混じって、おしゃれなカフェや雑貨屋が並ぶ。一橋のキャンパスを過ぎると、直線道路に果てしなく続く一軒家。いかにも「国立らしい」風景だ。

 だがそうした様子も、数分走れば徐々に変化する。公営住宅が林立した「富士見台地区」。さらに南武線を超えた「谷保地区」には農地が広がり、高速道路沿いの流通拠点としての側面も持つ。異なる性質をもった各地区は、ときに対立もはらみつつ、1つの市として歴史を歩んできた。

 市が高齢化と人口減少を迎えるなか、「国立イメージ」の捉えなおしを試みる連載。初回は国立地区の開発から町政施行までを、大学・村民・移住者の視点から読み解く。

甲州街道と谷保村

 都心から西におよそ30キロ、甲州街道の府中宿と日野宿の中間にある谷保村では、江戸時代、谷保天満宮を中心に、街道に沿って東西に家々が軒を連ねていた。街道から南に多摩川まで田畑が広がり、村人の多くが稲作と養蚕で生計を立てていた。街道沿いの村として、小さな茶店や渡船業も営まれていた。一方、村の北に広がる雑木林に人家は皆無で、村人も燃料や肥料を集めに入るだけだった。

 明治以降の急速な近代化も、多摩の農村の様子を劇的に変えることはなかった。1889年に開業した中央線は、雑木林の北端を通り過ぎるだけだった。

 1923年の晩秋、箱根や軽井沢のリゾート開発を成功させた不動産王・堤康次郎が谷保村を訪れる。「村の北辺100万坪の雑木林を、学園都市として開発したい」。都心で過密と環境悪化が深刻になる中、堤率いる箱根土地開発は、郊外に教育機関を誘致し、周辺を住環境のよい宅地として分譲することを計画。同時期には、大泉学園や小平の開発にも着手している。

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甲州街道沿いにあった江戸期の旧柳澤家は移設されている

商大がつくった国立

 こうして造られた学園都市に、一橋の前身・東京商科大が移転するのだが、本学の田崎宜義名誉教授は、箱根土地が商大を国立に誘致したという定説ではなく、商大側が移転と開発を箱根土地に請け負わせたという説を主張する。

 小さな私塾を起源とする東京高等商業学校は、官僚養成を主眼とする帝国大学とは異なり、実業界の専門人材育成を担ってきた。だが20年、大学に昇格すると「大学にふさわしい」教育環境の整備が進められる。予科、本科、専門部の設置で定員が大幅に増えたほか、体育会の活動拡大を目指したが、神田キャンパスは手狭すぎた。また、都市計画で商業地域に指定された大学周辺には、歓楽街ができて風紀が乱れる懸念もあった。

 そんな折、関東大震災で校舎の大半が失われ、移転は喫緊の課題となる。佐野善作学長は震災の8日後、親交のあった堤に移転先選びを依頼。留学経験のある佐野の理想は、広いキャンパスを住宅街で囲む欧米の大学町だった。

 埼玉や千葉、神奈川も検討されたが、工場地帯がなく都心からの交通手段も整っている東京西郊に絞られた。高円寺から先は家がまばらだった時代だが、佐野の理想を実現するためには、街一つを造成できる広大な用地が必要となる。移転が急がれるなか、「家や田畑が全くなく買収が容易な広い土地は、谷保村の雑木林がいちばん近かったのではないか」と田崎名誉教授は推測する。震災から3か月で、商大の国立移転が内定した。

 商大は、理想の教育環境が保たれるよう、街の設計にも注文をつけた。閑静な住宅街を造るため、簡素な建築や風紀を乱す商売は認めない。外見にも配慮した新駅を建設する。幅24間の幹線道路で大学を南北に貫くというのも商大の提案で、これにはさすがの堤も「三日三晩考え込んだ」。箱根土地はこれらの提案を受け入れ、24年9月、正式な契約が結ばれる。現在まで続く国立地区の基本設計は、佐野の理想が描き上げたのだ。

雑木林
西キャンパスに残る雑木林。兼松講堂東側はかつて火葬場だった

大学町誕生

 商大の国立移転が内定するとすぐ、箱根土地は相場の5~10倍という条件を提示して用地買収に取りかかる。先祖伝来の雑木林の売却することに抵抗はあったものの、西野寛司村長をはじめとする有力者は、村の発展と税収増を見込んで積極的に土地を提供した。会社は渋る地主を箱根に招いて接待し、協力を仰いだ。

買収が終わると、朝鮮人も動員した突貫工事を進め、碁盤目状の区画が完成する。25年に三角屋根の国立駅が設けられ、宅地分譲も開始。26年には国立学園、東京高等音楽学院(国立音大)が開校した。

 そして街の中心に用意された10万坪の敷地に兼松講堂や時計台、東西本館が建てられ、27年に商大専門部が、30年には本科が移転。広いグラウンドも設けられ、野球部やラグビー部も創設されている。

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谷保地区出身の関喜太郎は国立駅前に荒物屋「関屋」を開業した

「2つのちがう街」

 こうして谷保村は、新たな地区と新たな住人を迎え入れることになる。数人の谷保地区出身者が、国立地区に移って商店を構えた。村内唯一の公立小であった谷保小学校(市立一小)には、国立地区からも児童が通った。

 だが当時を知る人は「2つのちがう町という感じだった」と口を揃える。両地区の間(富士見台地区)には桑畑が広がり距離があったことに加え、都心に通勤して現金収入を得るホワイトカラーの住宅街と、地縁と伝統に結ばれた農村とでは、生活習慣や考え方も大きく異なっていた。

 さらに対立を生んだのが、宅地の売上不振だった。昭和恐慌の時代、1区画200坪の高級住宅地は簡単には売れなかった。当時の土地売買は後払いが一般的だったが、箱根土地からの支払いは滞り、裁判や暴力事件にも発展していた。こうした箱根土地への怒りが、両地区の溝をさらに深めることになる。

谷保村から国立町へ

 ようやく国立地区の移住者が増加し、町制施行が検討されるようになった47年、村議会で新町名が議論になった。当然、谷保地区の住民は由緒ある「谷保」の継承を望み、国立地区の人々は「国立」を望んだ。ただ、谷保地区でも若年層を中心に「ヤボ」の響きを嫌う声があった。

 谷保案は強い反対が予想されるが、国立案も気に入らない。そこで谷保地区出身の議員は「国保町」という折衷案を提示。全会一致で可決された。だが採択後、国立地区の住民が、これに猛反発する。

 郊外住宅といっても杉並や世田谷が一般的だった時代。インフラの不便が残る国立をあえて選んだという愛着は強かった。地区住民の99%が国立案に賛成しているという調査結果をもとに、国立地区の自治会である国立会は国保案の取り下げを要求。町名の議論は白紙に戻される。

 これに怒ったのは谷保地区出身の佐藤康胤村長だった。「平生何も村のことを考えないで、都合のいいときだけあんた方がそう言うのはおかしいんじゃないか」。移住者が多く、谷保村政には関心の低かった国立地区の住民が、心を改めるきっかけになったと、国立会の幹部であった早坂禮吾は振り返っている。

 51年に再度議論される頃には、国立地区の人口増加はピークを迎えていた。他の案に勝ち目はなく、全会一致で「国立町」が採択された。
ただ、谷保地区出身の男性は取材にこう答えた。「俺は国立の人間じゃない、谷保の人間なんだって考えている人は、今でもいますよ」

 国立地区に町政への自覚と、谷保地区に複雑な感情を残しつつ、谷保村は新たに国立町として歩みはじめる。51年4月、商大の移転計画から28年後のことだった。


次回は大学と住民主体のまちづくり、富士見台団地の開発、谷保地区の振興を追います。