非正規雇用を転々とする、漫画喫茶で寝泊まりする、といった若者の貧困問題は、2000年代後半に広く認知されるようになった。とはいえ、「ワーキングプア」や「ネットカフェ難民」と名付けられた彼らの存在は、同じ世代といっても、どこか遠くのものにも感じられる。
大西連『すぐそばにある「貧困」』では、貧困状態におちいった若者の事例が紹介されている。家族の不和、学校でのいじめ、夢を追った末の挫折……。彼らの背景一つ一つは、珍しいものではなくて、僕たちにも見に覚えがあるもの、今後経験するかもしれないものばかりだ。
自立生活サポートセンターもやいは、新宿区を拠点に生活困窮者の支援活動を行うNPOで、08年には年越し派遣村を主催したことでも知られる。87年生まれの大西さんは、もやいの2代目理事長として、貧困問題に最前線で取り組む。年の瀬も近づくある日、神楽坂のもやい事務所で、各地から申請同行(生活保護申請者が不当な扱いを受けないよう、支援者が手続きに同行すること)の結果報告を待つ大西さんに話を聞いた。
――東京の名門一貫男子校を卒業後、フリーターを経て、貧困支援の道に足を踏み入れたという異色の経歴をお持ちですよね。
僕は東京郊外出身なんだけど、通ってた公立小学校には多様な経済状況の子どもたちがいた。そこから中高一貫校に入ると、知的水準が同じで確かに居心地が良いんだよね。でも僕は、人の話を座って聞いているのが苦手だったので、だんだんと行くのがめんどくさくなってきた。サボってても怒られないくらい自由な学校ではあったんだけど、高校に入るくらいから、みんな一斉に受験の準備をはじめたんです。
で、自分も将来について悩んだ。でもよく考えると、優秀な子ほど選択肢って少ないんだよね。プライドもあるし。例えばコンビニのバイトで一生食っていくって選択肢はないわけ。文系・理系すら選べなかった僕は、とりあえず大学には行かずに、自分に何ができるか、自分の存在をなにもない状態で見ようと思ったの。
高校を卒業して、飲み屋やバーで接客のバイトをしてると、これまで出会ったことのない、同質じゃない人たちに出会った。例えばこのインタビューは、ある意味同質の空間なわけ。知的水準も同じで、言葉が通じる。でも、同質じゃない人たちには、相手にあわせて違う言葉にしないと伝わらない。自分が狭い価値観の中で生きていたことを知ったよね。
そんな中、偶然炊き出しのボランティアに誘われて行く機会があったんだけど、カレーを渡すとき、ホームレスのおじさんと手が触れて、とっさに自分の手を引っ込めてしまった。おじさんは「いつもありがとね」って笑顔で去っていったんだけど、そのとき自分の無意識にある差別心に驚いた。だってそれまで自分のことをリベラルな人だと思っていたから。でも実際の人を前にして、人権とか平等といった思想がとてももろいものであることに気づいてしまったわけね。
――そんな経験をすると、活動から逃げてしまいそうな気がします。
最初は、引きずり出された自分のみにくい部分を分析したくなったというか、プライドが傷つけられたのでちゃんと仕返ししたかった。負けず嫌いなタイプなんですね。
で、ボランティアを続けていると、こんなに大きな問題を、解決するために取り組んでいる人がほとんどいないことに気づいたの。行政や官僚はやる気がなくて、相談に来る人を追い返しちゃう。ボランティアの人たちも、みんな「『いいこと』しにきている」だけで、問題自体を解決しようとはしていなかった。
僕はそれまで、日本には僕より賢い人、キャリアのある人がごまんといて、社会をどうにか回していると思っていた。でも、現に貧しくて困っている人はたくさんいて、そういう人たちを助ける文化も根付いていない。自分がやらないとまずいなと思うことがたくさんありましたね。
――そうした問題意識のもと、どのように貧困問題に携わってきたのですか?
生活困窮者の相談に乗ろうと思って、日本で一番有名な団体であるもやいに来た。相談なんて、親戚のおじさんの話だと思って聞いてあげるだけだから、そんな難しくない。でも、知識が必要なんじゃないかとか、失礼なことしちゃいけないとか、いろいろ思いすぎちゃうと、対等に話ができないんだよね。
2010年、11年には、年間150件くらい申請同行に行きましたよ。でも、個人のキャパはそのくらいなので、より多くの人が、自分と同じように相談に乗れるよう、困っている人の共通項やニーズを言語化することを考えるようになりましたね。
――著書の中では、多数の原因が積み重なって貧困状態におちいった事例が書かれていました。あえてまとめるならば、どのようにして貧困におちいるといえるのでしょうか?
貧困には2つの側面があると考えていて、1つは経済的貧困と、もう1つはつながりの貧困。単純に仕事がなくなっただけでは貧困にならないわけです。実家に帰れるとか、職歴があって就職口がすぐに見つかるとか、貯金があるとか。そういう様々なつながりや力をどのくらい持っているかで、失業したときの影響が違ってくる。
これまで貧困は、日雇い労働者や在日外国人といったマージナルな人々の問題だったのだけど、コミュニティが薄れるにつれ、貧困の問題が中流階級の家庭にも入ってきた。家族の人数が減り、地域のつながりはますます薄れ、非正規雇用が増えて、職場でのつながりも失われてくる。2000年代に入る頃から、一般の人たちにも低所得と孤立が広がっているというのが私の問題意識ですね。
――そうした「つながりの貧困」に、どのような支援をしているのですか?
もやいでは、若い世代の生活困窮者に対して、生活保護申請を助けたり、住居や職業を紹介するほかに、「居場所づくり」にも取り組んでいます。サッカーやったり、飯食ったり、似合う服をみんなで考えたり。これはつながりを回復させることを目指している。貧困に陥っても、若者なら再就職しやすいし、アパートを得ることはそんなに難しくない。ただ、人間関係を取り戻すことは難しい。家族や友人と縁が切れてることが多くて、非正規だと職場でのつながりも持ちにくい。失われたものを元通りにすることはできないですけど、つながりの喪失体験をした人が、自分で見つけて、仲良くなって、嫌になったら変えられるという経験をすることは、今後の自信につながるかなと思います。
「自立」って別に1人で生きているということじゃなくて、むしろいろんな依存先を持っていて、そのつながりを自らの主体性で作っていける状態だと考えています。
――「自立」なのに「依存」しているって不思議ですよね。
確かに不思議だよね。でも今、ふつうに生活できている人でも、依存先って家族・友人・恋人・同僚しかないんだよね。家族の人数は減ってるし、友達って同質な存在だから、自分がドロップアウトすると残りづらくなる。サークルの同期でも、大卒で1人だけ非正規だと、会いづらくなっちゃうよね。恋人はそもそもできづらいし、同僚のつながりも薄れてきている。
逆に質問するけど、将来の生活に不安感じたりする?
――不安ですね。親の介護で働けなくなったらどうしようとか、ブラック企業でこき使われたら、とか。
あなたたちが不安だったら、残りの人たちはどうしたらいいわけ? だってさ、一橋の学生って、客観的にはエリートなわけじゃん。その人たちが不安を抱えているってことは、これはかなり深刻だよね。昔はね、学歴があっていい会社にいたら不安に思わなかった。でも、今は終身雇用の時代じゃなくなってきている。
ただ、大企業への就職がゴールになっている人はまだいるよね。どんな仕事をするかじゃなくて、どの会社の名刺がほしいか。それが保証になるという古き良き安心感を目指している人は多くて、親や周囲からの期待も強い。変化した社会と、変化しない価値観のギャップに悩む時代だよね。
――今の時代、「豊かな」暮らしをするのは、どのような立場にいても難しいのかもしれません。
価値観と現実社会が変化するスピードが違う中でどう対応するかが大事なんだけど、せめてもうひとつ心の置き所、違う価値観を持てているだけでも変わってくるはず。「これをしないと生きていけない」という状態はよくない。
当たり前だけど、多くの人が楽しく仕事できたり、楽観的に将来のことを考えられるほうが、社会も豊かになるよね。貯金せずに消費していくだろうし、「学費どうしよう」とか考えちゃうと子どもなんか産めなくなる。
「一つ否定されるとおわる」社会をやめて、行動の選択肢をどう広げるか。これは様々な立場の人たちが取り組めること。時代にあった合理的な制度を構築する必要があるけど、それだけじゃなくて、いろんな人達がロールモデルをつくっていくべきことだよね。
――大西さん自身は、どのように選択肢を広げているのですか?
僕は基本的にね、来たボールはとりあえず打ってみることにしてるんですよ。勇気が要りますよ。社会には自分より優秀な人も多いし、失敗すると無能な自分をさらけ出しちゃうから。でも、謙虚になりすぎるとなにもできなくなっちゃうので、来た球を打つ。もちろんブラック企業なんかは早めに逃げたほうがいいんだよ。できないことは早く諦めたほうがいい。「逃げた」と思われることへのプライドはいらない。
でもね、意外と人間ってどんなこともできると思います。僕なんか、気づいたらなんでも楽しくなっちゃう。「飽きっぽい」とも言えるんだけど、それはいろんなことに関心があるってことだから、いろんな依存先を持ってるってこと。それは強みだよね。
そしてできれば、多くの人の利益になるようなこと、社会のプラスになるようなことができるといいよね。これが、社会の中で、能力と機会を持っている人の責任かなと思います。